メアリー・セレスト号

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メアリー・セレスト号

メアリー・セレスト号とは、1872年に海上で発見された無人の船である。乗組員がどこに行ったのかは今でも謎である。

事件当日
1872年12月4日(19世紀は標準時の制定前であるため、12月5日であったともいわれる)、メアリー・セレストは、カナダ船籍のデイ・グラツィア(ラテン語:神の恩寵)にアゾレス諸島の近くで発見された。デイ・グラツィアはメアリー・セレストの7日後にニューヨーク港を出港した船で、その船長モアハウスはブリッグズと親しい友人であり、出港前に会食している。このことは、船長二人の共謀による詐欺疑惑を招いた。しかし、ブリッグス船長の高潔な人柄とともに、ブリッグス船長の船主権を普通に売却した方が利益が大きいということも判明して、詐欺説は深く検討されなかった。

デイ・グラツィアの乗組員は2時間ほどメアリー・セレストを観察し、「遭難信号を掲げていないがおそらく漂流中なのだろう」と判断した。実際に乗り込んで確かめるべく、一等航海士オリヴァー・デヴォーは小さなボート数隻を率い、メアリー・セレストに向かった。デヴォーは「船全体がびしょ濡れだ」と報告した。ポンプは一基を除いて操作不能であり、デッキは水浸しで船倉は3フィート半(約1.1メートル)にわたって浸水していたという。船は他の点では良好な状態であるように思われたが誰も乗っていなかった。

前ハッチも食料貯蔵室も共に開いており、掛時計は機能しておらず、方位磁針(羅針盤)は破壊されていた。六分儀とクロノメーターは失われており、船が故意に遺棄されたことを示唆していた。この船唯一の救命ボートは無理矢理引き離された、というよりも故意に降ろされていたようだった。3つの手すりに謎めいた血痕があり、1つの手すりには説明のできない引っかき傷があった。また、血まみれの刀剣(に見えたが、実際は赤錆だった)が船長の寝台の下に隠されていた。

1700樽のアルコールは後にジェノヴァで降ろされたとき9樽が空であったと分かったが、それ以外は無事で、6か月分の食料と水も残されていた。船内の書類は、船長の航海日誌以外は全く見つからなかった。最後の日誌の記入は11月24日の、アゾレス諸島の西方100マイルの海上にいたと書かれており、11月25日にはアゾレスのサンタマリア島に到着できる位置である。

デイ・グラツィア号の乗組員はメアリー・セレストをジブラルタルまで航行し、判事は審理の中で彼らの勇気と技術を賞賛した。しかし、海事裁判所事務官のフレデリック・ソリー・フラッドは、デイ・グラツィア号の乗組員に対して不正行為を疑い、海難救助の申請を事実上の裁判として扱った。結局、裁判所は乗組員に船体と積荷の価格の15%に相当する賞金を与えはしたが、相場の額よりはかなり低かった。これは疑いがあるものの証明できない不正行為に対する罰として相殺されたためであった。

乗組員はいったいどこに行ってしまったのだろうか?

4 Comments

  • 匿名

    4月 8, 2018 at 7:01 pm

    サメに食べられたってやつじゃないの?無理ある説な気もするけど。

  • 匿名

    4月 17, 2018 at 11:21 am

    サメで全滅…..!?

    匿名

    4月 21, 2018 at 11:48 pm

    ボートに乗って逃げたんじゃないかな。そのボートで乗組員は死んだっていう。

    匿名

    4月 25, 2018 at 10:19 am

    尾ひれがついた感あるな

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